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初めてのウイグルとカザフスタン 1994


 中央アジアの地に初めて足を踏み入れ、そのことが10年以上も続くとは思いもよらない時期でした。

主にカザフスタンの国境の町、パンフィロフにある旧ソ連の共産党青年団のキャンプ地にいました。

圧倒的な自然の広さに戸惑う日々でした。



キャンプ地にあるパオ、下が開いているから夜は寒い
 
パンフィロフの立派なモスクです。


砂漠もイスラムも苦手だったのに、シルクロードに関わることになってしまった。

異文化への興 味は学生時代、探検部に所属していた頃からもっていて、そのころ

読んでいた本多勝一の「極限の民族」ではエスキモー、アラブのベドウイン、

ニューギニア高地民がそれぞれ、寒帯、乾燥地帯、熱帯を代表する形で選ばれていた。

 その中では、姿かたちは日本人とだいぶ違うが、義理人情があるというのが面白く、

ニューギニアに行ってみたくなった。蛇だけはごめんだが、気候的にも動植物が

豊富な熱帯が性にあっていたからである。

 具体的には大学紛争のさなか、フイリピンのパラワン島に行く計画を立てた。

この島の南には時々海賊行為もするというイスラム系の民族が住んでいる。

襲われないように、イスラムに改宗して行こうかなどと孝えていた。

飛行機で行けばすぐだが、資金がないため、貨客船でマニラまで行こうと計画した。 

 それから二十余年、イスラム嫌いはウイグルに行ってみると偏見にすぎない。

百聞は一見にしかずである。イスラムにもいろいろあり、ウイグルはかなり柔軟な

イスラムである。今では探検などというと笑われてしまうが、当時は政府は

外貨準備高などを心配しながら海外渡航が詐可されていた。今では円高日本の

観光客は世界中を飛び回っている。もちろん、シルクロードもそうである。

この地を訪れる外国人観光客の半数は日本人である。

 観光人類学的なスケッチをしてみると、ウイグル観光のタイプは多様な民族の風俗習慣

とくに音楽、踊りをショーアップしたエスニック観光、天山南路北路に点在する仏教遣跡

などの歴史観光、タクラマカン砂漠、大草原、天山山脈など圧倒的な大自然の環境観光

であろう。この中にはマルコポーロ、ヘデインなどシルクロードを探検した歴史的人物の

軌跡の迫体験も含まれている。



 
ウイグルでは伝統的に音楽や踊りが盛んである。年中行事や歓迎行事などの機会で

踊られる。カシュガルではホテルと、土色の壁の細い路地の奥にある民族幼稚園で

踊りを見た。 異国情緒たっぷりのステレオタイプ化した踊り、これは今の人はほとんど

踊らないらしい。それとともに電子楽器を使った新しい踊りもある。彼らにとって

民族音楽も舞踊も、観光の見せ物でも、アイテンテイテイでも、生活の一部でもある。


 ウイグルは北京からみれば、新彊という名のように、フロンテイアである。

日本からみても中国の奥地と見られてしまう。だが彼らの目は西を向いている。

ウイグルから始まって、カザフスタンなど中央アジアを通り、トルコまで連なる

トルコ系民族が住んでいる。ソ連や中国などの国際政治によってこれらの国をつなぐ

現代のシルクロードはたびたび分断されたが、文化的な親近性は持続している。

政治的に住みづらくなると、カザフスタンやトルコまで亡命する。その身軽さと

たくましさは日本人にはない。

 

 
たえず移動する文化の中で作られるウイグル社会の構造は、かっちりと組み立てられた

日本の社会構造とはかなり違うようである。地縁は希薄で、血縁は三・四世代までで、

日本の「家」という意識はない。婚姻率も高いが、離婚率も日本より高い。

これは近年だけの現象ではない。

他の資料からも親族組織はそれほど強固なものでもない。

 歴史を見ても東西の文化、遊牧文化と農耕文化、シヤーマニズム、マニ教、仏教、

そしてイスラム教とさまざまな文化の影響を受けている。近代史でも清朝との争い、

いわゆる解放後での人民公社化、文化大革命、市場経済の導入と激動の嵐の中にあった。

 絶えず変化にさらされ、移動する彼らの文化のあり方は異種混交の文化、

ボーダレスの文化である。 日本文化のような「純粋培養の文化」がむしろ珍しく、

ウイグル文化のあり方が世界的には多数派であろう


        

  彼らはウイグル人としてのアイデンテイテイをどのように形成して行くのだろうか。 

それには歴史教育に重要な役割があるのだが、当然のことながら中国国民として

中国の歴史は教えられていても、ウイグルの歴史は学校では敦えられない。

ウイグル固有の歴史を書くことは可能だろうか。歴史を事実の取捨選択による物語

とすればそれも可能であろうが、多言語が通常の状況であるような文化ならば、

ダブルアイデンテイテイならぬ多様なアイデンテイテイを持つ歴史や文化を描く方が、

ポストモダンのこの時代には生産的だと思える。それには観光客ように

異国趣味や伝統を追い求めるのではなく、絶えず生成する文化の姿

をとらえる眼が必要であろう

 


国境の町パンフィロフの民俗博物館



94.7.30
12時タクシーで空港へ、中華航空で定刻出発、ジャンボの真ん中の席で外も見えない、大連で降りて

入国手続き、空港から見るだけだが工場が多い.、北京はすでに暗い、暑い、ホテルでは歓迎団がい

る、展覧館賓館に宿泊、夕食は案外とおいしい、さっさと寝る。


31日
万里の長城、天安門を見学、どちらも観光客でいっぱい、バスが入れないため歩く、天安門で凧売り

がしつこく一つ買う、観光地は面白くない、1回見ればよい.夕方から公式の歓迎行事、中国語を話

せないのがもどかしい。


8月1日

午前、故宮博物館を見学、その大きさに驚くが、暑さと人ごみで疲れる、コーラ4元を買う、新疆

航空で、13:40発 ウルムチへ、機内での食事が多い、うまくもなく食べきれない、途中から砂

漠と雪をかぶった山脈が見える、初めてだから何もかも珍しい、ウルムチ空港では少年少女団の中国

式の大歓迎。ウルムチの空気は違う、広さが感じられる。歓迎は新疆芸術学院の人か。

北京−ウルムチ―カザフスタン


2日、

市内を一望に見渡せる公園に、紅山公園。バザールに行く。中国人の通訳に値切ってもらう

、安い、ここはウイグル人ばかり。再び歓迎行事、飯はまずい。ここのホテルは北京のよりまずい、

(今から考えるとウルムチ郊外のホテルのようであるが、どこか思い出せない、十数年後に探してみ

たが、見つからない。壊されて、新しい建物が建っている
とのこと。あの変化の激しさからいえば当

然であろう。写真はドイツからの寝台バス、ドイツ人は旅行が好きである。)



3日

朝暗いうちから起きてマイクロバスに分乗して、ウルムチを出発、市内は朝早く、人は少ない、ス

ピードを出してバスはひたすら西へ、揺れがひどい、途中橋が壊れ、ルートを変更していく、途中大

きな湖、サイラム湖で休憩、大衆食堂風のラグメンこれがうまい、久しぶりに冷えたビールを飲めた

、かなり高い峠のカーブを切りながら、あぶない運転だと思っていたが、道端の砂利山に突っ込み、

事故、脚のひざに怪我、自分も含め軽傷で済んでよかった。予定通り、国境の町コルガスに

着く、6階建てなのにエレベーターもないホテル、鍵も各階のフロアー担当が開け閉め。

ひざの治療をする。




4日、

今日は国境を越えてカザフ入り、日本は陸での国境はないから、このような形での国境越え

は初体験であり、面白い。まず中国側のゲートを通過する、とにかく事務手続きに時間がかかる、国

境貿易が発展しているせいか、トラックが多い。中国側をすぎても次はカザフ側の検問である、途中

、中間地帯を通り、果てしなく続く鉄条網を通過する、中ソ紛争のときは大変だったろうと想像され

る。カザフ側では警備隊はロシアの軍隊がしているように見えた。関税申告書など必要もないのに書

かされる。荷物検査もなし、しかし、やたらと待たされる。シシカバブを食べる。警察の先導で歓迎

会会場へ、強い日差しのなかの長いスピーチ。そこから1時間ほどでキャンプ地に着く。小屋にベッ

ドがある、シュラフはいらない。カザフに入ると食料は減り、ビールもないから健康的な生活になる

、時差は4時間、北京、ウルムチ、パンフロフとそのつど時間を変えてきて、何時な
のかわからなく

なる。



5日、

今日はほとんど中休み。カザフの首都アルマータに行こうと提案するが時間的余裕がないと却下。

近くの遊牧的生活をしているカザフに会いたいと思うが、団体行動では無理のようである。夜はキャ

ンプ料理、まずい。



6日、

近くの丘へハイキング、日差しが暑い、丘へ登っても同じような丘が果てしなく続く、パオ

らしきものは見えない。人の気配なし、帰りは馬に乗って帰る、思ったより高い、賢い馬で自分のう

ちに帰るだけという感じで、快適に乗れた、でもしりと脚が痛くなった。





8日、

朝キャンプ場を引き上げ、再び、国境を越えて、政府に挨拶して、イリの飛行場に向かう。これで

ウルムチに帰るつもりが、飛行機の手配がつかないとかで、私も含め半分のメンバーはイリのホテル

宿泊。

9日、

ウルムチへ、よく覚えていないが乗り継ぎで、ウルムチ空港から北京行きに乗る。






ウルムチへの帰途、馬も家に帰るところです。季節に変わり目で雨が多くなりました




 



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